和食文化の考え方

昭和30年代に大ヒットした「魚肉ソーセージ」は、原爆マグロ問題で価格が暴落した余剰マグロの活用として始まり、今も売られているロングヒット商品ですが、通常、我々は「魚肉」とは言いません。しかし肉であることは間違いありません。外国では普通らしいですが、豚の頭をそのまま売り台に乗せて販売している光景は、遠くから見ましたが近寄れませんでした。豚の頭もマグロの頭も同じだとも言えるでしょうが、日本の食文化で育った身としては、なかなかそうは思えません。

和食の代表格は寿司と天ぷらです。最近は築地市場の寿司屋でもよく外国人観光客を見ます。昔は1人前の寿司を3〜4人で恐る恐る食べている光景をよく見ましたし、握るときに手袋をしないのかと言われた板前もいましたが、最近は美味しそうに食べる方が増えています。「生食文化」は世界的にも珍しいらしく、寿司もいわゆる魚の刺身がネタではなく、加工品主体になってきているようですが、「寿司もどき」も、それはそれで寿司文化の普及に貢献しているのではないでしょうか。

 

肉食圏の人にとっては魚、畜肉、鶏肉は全て「肉」であり、牛、豚と魚は同列なのかもしれません。基準は地域の生活習慣と、神が許したか禁じたかという、それぞれの土地・国が育てた宗教と食文化の違いですから、他国の食文化を理解することは大変です。

 数年前、ハーバード大学教授で人類学者テオドル・ベスターが「築地」という640ページの大著を出版しています。この本はアメリカ人類学協会の最優秀賞を受賞したものですが、その中でベスター氏は、築地市場の魚について次のように言っています。

 

「なぜ有毒なフグが御馳走なのか?いったんしびれた感覚が戻ってくるのが(戻るとは限らないが)たまらないのだ」「クジラに関しては、擬人化されやすいからおそらく他の海洋生物よりも(供養)儀式が頻繁に行われる」「母親は子供に授乳するし親子はともに暮らす。捕鯨者が捕鯨行為に対して複雑な気持ちを抱いたり、熱心に供養を行ったりするのは、そのようなこともあるのかもしれない」「活造りをさして言う残酷料理という言葉に複雑な心境が透けて見える。実は魚を殺していることを重々承知していて、入念な儀式を行っている築地商人たちもいるのだ。」

 

この辺でやめます。他者の命を頂くことで生命を維持する自然への感謝と畏れ(畏敬)を「祟りを恐れる行為」と解釈する。アメリカを代表する人類学者で、お寿司大好き、日本語ペラペラの人物が、これほど皮相な見方しか出来ないのです。他国の食文化を理解するのは難しい。

「和食・寿司」は世界に広がるでしょう。鯨が可哀想なら牛は可哀想ではないのかという意見も皮相なのかもしれません。生活・宗教と結びついた他国の食文化を理解することが日本の食文化を普及させるカギでもあると思いました。