食事は神事

 去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの(虚子)

 明けましておめでとうございます。

 元々の性格か若さ故か、昔は、昨日と今日と何が変わる、何がめでたいと思っていましたが、近年とみに、一年を無事に終え新しい一年を迎えることが出来たことを感謝するようになりました。最近は一年どころか日々新しい朝を迎えるごとに、おめでとうと言いたい気分です。正月はめでたく今日もおめでたい。時間には絶対時間と各人の持つ相対時間がありますから、高齢になるほど時間の経つのは早くなります。

 毎年、年末年始はサッカー、駅伝、ラグビーとテレビ観戦に忙しく、ひたすらミカンとモチ、あり合わせのおせちで時を過ごします。特にモチが好きで、のどに詰まりそうになりながら食べ続け、毎年、正月だけでなく一年中食べようと決意するのですが、年頭の決意と同じく3日で忘れます。親類が集まって行う餅つきを見ながら、小さな「あんころ餅」を一つもらえることを楽しみにしていた子供の頃の思いが今も続いているのでしょうか。

 正月の祝いは、奈良時代の宮廷の公式行事から始まったとされていて、庶民が正月を祝い雑煮を食べるようになったのは室町時代からと言われています。雑煮は「式三献のなかの酒の肴」であり、「正月に出される餅と野菜で作った煮物」と文献で定義されていますので、正月に酒を飲みながら料理をつまむのは、日本の食文化の伝統に則った正しい作法です。

 飛鳥時代には鏡餅が神にお供えされていて、モチは人の生命に力を与える霊験あらたかな食べ物と考えられていました。そして神に捧げたモチを、同じくお供えしていた土地の野菜とあわせて煮るのがお雑煮であり、単なる「ごった煮」ではありません。お雑煮は神と共に食べる「直会(なおらい)」の主菜です。お雑煮のレシピが今でも各地で全く違う地域性が強いのは、そうした食文化の歴史の一つの表れです。

 食事の時に「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせることに象徴されているように、食事は神様から頂き神様に感謝を捧げながら、ただ神様から頂くだけでなく神様と一緒に食べる「神事」です。寝転がってテレビを見ながらつまむようなものではありません。

 経験のある方もおられるでしょうが、仏壇のお下がりで固くなったご飯を食べさせられるのは嫌なものですが、あれを食べるのは子供の仕事のようで、嫌がって親にひっぱたかれた経験があります。「神様仏様も、食べるのだったら残さず食べろよ」と思ったのですから相当ひねた嫌な子供だったのでしょう。